YOU CAN (NOT) REDO.

厨二はじめました。

(ss)ギブソンタック


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一年前から、学校で"麦"が配られるようになった。県内有数の大学進学実績を誇る男子校である本校生徒の幸福指数が、37.2ポイントと過去最低の値を更新したことで受験者数の減少を恐れた学校が先手を打った格好だ。"学歴神話"のメッキが剥がれたことで、生徒の幸福指数は保護者たちの学校選びの重要なファクターになっていた。

 

朝8時25分、コンクリート造りの校舎の下駄箱をくぐる。積み木のようなとぼけた外観が、中に広がる冷え冷えしたグレーの壁の余所余所しさを殊更に強調するようだ。「おはよう」と、挨拶と呼ぶには乾いた言葉を宙に浮かせて教室に入り、窓際の私の席に向かう。クラスメイト達はとっくに登校していて、お喋りをしていたり、プロレスごっこをしたりしている。やんちゃな模範的中学生男子が集まった活気のあるクラスの風景だが、あまりにも明け透けになった彼らは、綺麗に揃えられたビー玉のように見えた。彼らの中にあった童貞の鬱屈も、気泡ほどもすっかり残っちゃあいなかった。

 

 「兄弟たちの手のひらに、今日もいくばくかの"麦"を賜わりください。」毎日の朝の祈りを唱えると、透明なプラスティックの袋に入った真っ白い粒子剤が、担任教諭から手渡される。これが一年前から配られている"麦"で、朝の礼拝の時間が終わったら各自手持ちのお茶などに溶かして飲む決まりになっている。"麦"の配布が始まってから、生徒たちの学力・体力、そして幸福度は著しく上昇しそうだ。それの証拠に、入学時は平均ほどだった私の試験成績は最下位まで転落した。そう、"麦"を飲んでいないのは私だけだ。もちろん最初は怪しんで口をつけなかった生徒もいたが、次第に数を減らし、ついには私だけになったのだ。私には私の信仰がある。こんな粉に惑わされてはならない。信仰の自由を守り抜いた私の鞄は、"麦"でいっぱいになった。

 

夕方16時10分。学校の最寄り駅から、自宅方向とは逆の上り電車に乗る。塾に通うわけでもなければ、デートというわけでもない。そういった俗物的で凡庸で、想像力に欠ける行為とは真逆の使命に燃えていた。3号車の先頭車両にのりこむと、やはり今日もドアにもたれて文庫本をめくっている。きちっと着こなされた濃紺のブレザーに、粉雪よりも端正な顔立ちによく似合う海外女優のように編み込まれた黒髪(調べたらギブソンタックという髪型らしい)からは、列からはみ出さない行儀のよさよりも、正しい美しさに挑む誠実さがあらわれていた。彼女と、スカートからするりと伸びる生足を盗み見るため、僕も文庫本を捲る。主人公・グスコーブドリの溶岩のような熱意は僕の手前で見事に空回って、酸っぱい鬱屈と彼女への信仰ばかりが育った。(つづく)